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例) 多治見 まち イベント

こと  2023.07.10

多治見出身のイラストレーター・佐々木悟郎 水彩で描いた40年の道のり

あっつう度

多治見出身のイラストレーター佐々木悟郎さん。水彩イラストの第一人者として独自の画風を確立し、書籍の装丁、雑誌・新聞の挿絵など幅広い分野で活躍し続けています。

 

現在、新町ビルで「40years of Watercolor Life」佐々木悟郎作品展を開催。地元・多治見では初めての個展です。イラストレーター40年の節目として、80年代から現代に至るまでの作品を展示。懐かしさと新しさが調和した水彩画の魅力に加え、コラージュやアパレルなど、常に新たな表現に挑戦する悟郎さんの作品を見ることができます。

 

今回、多治見に帰郷した悟郎さんにお話を伺いました。多治見で過ごした子ども時代、多治見北高校での転機、イラストレーターとして活躍する40年とまちの移り変わりについて聞かせてもらいました。

 

■佐々木悟郎 プロフィール

1956年多治見生まれ。岐阜県立多治見北高等学校、愛知県立芸術大学デザイン科、アートセンター・カレッジ・オブ・デザインを卒業。NAAC展ADC部門特選、講談社出版文化賞など多数受賞。現在は東京を拠点に書籍カバーデザインや雑誌の挿絵、CDジャケットやポスターなど幅広い分野で活動を続ける。

 

 

多治見からアメリカ、東京へ。絵と音楽に浸った青春時代

 

―悟郎さんは、多治見でどんな幼少期を過ごしましたか?

僕は昭和小学校に通っていたんだけど、5年生の時にいきなり体育の先生に水泳を勧められて。それから高校までずっと水泳の選手でした。平和中学校では当時プールがなかったから体操部に入ったんですよ。

 

ー子どもの頃は運動部だったんですね。絵はいつ頃から始めたんですか?

我流ですが父親が絵を描く人で、自宅に画集がいっぱいあったんですよ。それを広げては、梅原龍三郎とか渋い作家の作品を眺めていた。日曜になると画家の先生を家に呼んで、両親がキャンバスを立てて描いていたから僕も参加するようになりましたね。だから、最初に描いたのは水彩ではなく油絵だったんですよ。正直、全然楽しくなかったけどイニシエーションっていうのかな。知らない道具を使って絵を描く世界があると知るきっかけになった。

 

 

 

―多治見北高校では、どんな学生生活を送っていたんですか?

北高は進学校だけど音楽やるわ、絵を描くはで劣等生だったんですよ。水泳部と美術部に入っていましたね。新任で多摩美術大学出身の女性の先生がいて、僕らにとって指針だった。いろんなセンスを持っていて新しさを感じる存在でした。先生からデッサンの方法を教わり、いろんな画集も見始めて、今までとは違う絵の世界を開眼させてくれた人。イラストレーションを意識するようになったのは、その頃からかな。

 

―高校に入ってから本格的に絵の世界を意識し始めたんですね。

そうですね。あとは高校3年の夏休みに、美術部の友人から東京の美術学校の夏期講習に誘われて。彼と一緒に1ヶ月間、北高出身の彫刻家・天野裕夫さんの家に居候して通ったんですよ。高校の先生からは「今からやっても愛知県芸や東京藝大は現役じゃ無理。二浪か三浪は覚悟しろよ」と言われたけれど、愛知県立芸術大学デザイン科に現役で合格できましたね。

 

 

 

―日本画など絵の専攻ではなくデザイン科だったんですね。

絵は好きだったけど、子どもの頃に学んだ油絵が僕にとってあまり印象が良くなかった。いわゆる画家独自の世界観が苦手だったから、とにかくその世界には行きたくないと思って。でも、いろんな雑誌にはイラストや写真をレイアウトした素敵なデザインがたくさんあった。僕はこっちの世界が大好きだなと思ったんです。

 

―愛知県芸では絵に没頭したんですか?

大学に入ってから、もう音楽三昧ですよ。僕と音楽は切っても切れない。どちらかというと音楽が中心にある……イラストを軽んじてるのかと叱られそうだけど。笑

 

―悟郎さんにとって、音楽は欠かせないものなんですね。

音楽は、ドラムとギターをやっていた親父の影響がすごく強い。父は恵那市岩村の出身で、戦争から帰ってきて何もすることないからと地元の若者を集めて楽団を作ったくらい音楽好きだった。家に洋楽のレコードがいっぱいあって、ハワイアン、ジャズ、クラシックを小さい頃からよく聴いていたし、家に居候していた叔父もアメリカやイギリスの50~60年代ポップスのシングル盤をたくさん持っていた。それが僕の音楽のルーツになっていると思う。

 

―幼い頃から音楽に囲まれて暮らしていたんですね。

中学の時、親父が可児のヤイリギターでギターを一本買ってきてさ。そこから3カ月後には自分で曲を作っていましたね。高校の美術室横の中庭でギターを弾いていたりオリジナルも30曲はあったかな。大学1年でヤマハポピュラーソングコンテストのオーディションに合格して、名古屋地区でグランプリを獲得。全国大会までいったから、このままミュージシャンかな?という勘違いも始まったり。笑

 

―そのまま音楽の道を志すことはなかったんですか?

翌年も名古屋地区大会まで進んだけれどグランプリは取れなかった。もし賞を取っていたら違ったかもしれないけれど、その後「俺は県芸にいるんだよな」と我に返って、大学3年で心を入れ替えた。

 

―そこで音楽がうまくいっていたら、いまの悟郎さんはいないかもしれないですね。

本当にそうですよ。そして、大学3年で教授に「悟郎はアメリカで学んだ方がいい」と言われたのも大きかった。父には奨学金を取る約束をして許しをもらい、ロサンゼルスにあるアートセンター・カレッジ・オブ・デザインに通うことができましたね。

 

 

自分の作品を客観視できるから、続けられた40年間

 

―その後、アメリカで活動しようとは考えなかったんですか?

ニューヨークで雑誌の仕事に就くと心に決めていました。でも、卒業間際に親父が病気で倒れて亡くなったんですよ。一人っ子だったこともあり、アメリカに居続けることは難しく荷物をまとめて多治見に帰ってきました。そこから考えを変え、日本で雑誌をやるなら東京だと。それが1981年かな。

 

―岐阜からアメリカ、そして東京へ。何もツテが無い中でイラストレーションの仕事はうまくいったんでしょうか?

誰も僕のこと知らないからね。でも、すごくラッキーだったことが一つあった。それは、アメリカで世界的なデザイナー・粟津潔と知り合うきっかけがあったこと。作品を見てもらったら「日本に戻ったら僕のところに来なさい」と言ってもらって。だから、まず粟津さんを訪ねたんだよね。

 

―たった一つの手がかりだったわけですね。

粟津さんに「誰か紹介してもらえますか」とお願いしたら、田中一光や永井一正、横尾忠則と世界トップクラスの方ばかり。そんなすごい人たちに会いに行けない……と怖気づいたよ。でも、その中に黒田征太郎と長友啓典が設立したデザイン事務所「K2」があった。昔からK2は好きだったし電話をかけてみたら気さくに受け入れてくださって。黒田さんが紹介してくれたのがグラフィックデザイナー・松永真さん。松永さんも僕の絵を分かってくださって、そこから2年ほど松永さんに見てもらいながら絵を手直ししていた。最初の仕事は、松永さんがディレクションしていた雑誌『MORE』(集英社)の星占いページのイラストでした。そこから雑誌や広告の仕事を頂けるようになりましたね。

 

 

 

―絵も音楽も、好きなことを続けてきた悟郎さん。仕事で活躍するには「好き」だけでは押し通せない難しさもあるのでは。

よく「一番好きなことは仕事にするな」って言うじゃないですか。僕は音楽が一番好きなことだと思う。のめり込んで見境がつかなくなり、冷静で客観的な判断ができなくなる。「俺の音楽は最高だろう」みたいな気持ちになっちゃうわけですよ。だけど、絵はそうではなかった。自分の絵はそんなに惚れてないんですよね。

 

―それはイラストレーターに至った理由の一つでしょうか。

まさにそうです。自分の絵はそんなにすごいとは思っていないし、何がいいんだろうなって感覚でずっとやってきたから。もちろん絵を描くのは好き。だけど常に冷静に描いてきたから、イラストレーターとしてここまで続けられたと思う。

 

―仕事を40年間続けてきて、時代の移り変わりは感じますか?

イラストレーションの仕事は、書籍の表紙、雑誌のカット、CDやポスターなど紙媒体が中心。でも、いまは広告にお金をかけない。凝ったポスターも見ない。予算の都合はあるかもしれないけど広告の割合が極端に減ったよね。

 

―80年代や90年代は「広告=かっこいい」という印象があった気がします。

広告が時代をつくっていたからね。いまはwebの仕事も多少あるけれど、どうしても情報の一部であって実体があるようでない。紙媒体は残るけれどwebは一過性なんだろうな。だから、やっぱりこうやって現場で作品を見てもらうのは大事なことだと思う。

 

 

いまの多治見を巡り、感じた明るい変化

 

 

―多治見では初の個展です。今年の5月に写真を撮りながら、まちを巡ったんですね。

ちゃんと多治見を巡ったのは久々ですね。まちの印象としては、小学校の頃はすごく景気が良くて、みんなコーラスを習いに行ったり、絵画教室があったり文化的に豊かだった。映画館が3つもあって、すごく素敵なまちだったんだよ。だけど、大学生になった頃から僕の中では残念なまちになった。まちが縮小して外に向いていなくて、陶器産業も昔からの流れで現状維持というイメージだった。

 

―まちが豊かな時代を知っているからこそ悲しい状況ですね。

同窓会で帰ってもシャッター街になっている。それは多治見に限らず全国の地方都市における現象だったけれど、多治見もその一つになっちまったかと思って、正直あまり魅力を感じなかったんだよね。でも今回、いろんな意味で世代交代が起こったんだと感じた。

 

―悟郎さんよりも下の世代の存在でしょうか?

新町ビルの水野くんもそうだけど、若い人たちが文化を見直していた。5月にいろいろ連れて行ってもらったら、表面はシャッター街だけど、古民家を使ってリノベーションして喫茶店や雑貨店をやっていたり、すごく素敵な暮らし方をしてるんだよね。表は派手に見えないけれど、ちゃんと育てている文化があって、その中身が定着し始めていると感じました。

 

―新しい世代の価値観の変化もあるんでしょうか。

今までの時代はいかにも表面的で、景気がいい・悪いが大きな基準だった。ライフスタイルの本当の幸せは何なのか。そのリアリティとしては、いまの人の方が正しく生きているんじゃないかな。毎日を自分たちで考えながらエンジョイしている。

 

―自分らしく楽しむ術を手にしているのかもしれないですね。

新町ビルもそうだよ。「お前、そんなのできるわけねえじゃん。無理でしょ」と言ってきたのが僕たちの世代。でも、いまの人って普通に何かを始めてしまう。それは昔にはない発想なんです。だから尊敬していますよ。

 

 

 

―悟郎さんが今回の個展で描きおろしたCAFE NEU!(カフェノイ)は、多治見に新しい店が増える大きなきっかけになっていると思います。

そう、水野くんからNEU!は人と人がつながる場所だと聞いたから、描こうと思った。橋を描く予定だったけれど、東京に戻る直前に店の外観を見に行って写真を撮った。文化の交差点なんだろうね。あの店を描けてよかったです。

 

―この個展をきっかけに、悟郎さんの故郷に対する見方も変わったんですね。

僕の中では、多治見のまちは衰退して終わったと思っていた。でも、そうじゃなかった。立ち上がっていた。僕としても本当にうれしいですね。

 

―イラストレーターの活動が40年を迎えました。この先も続く歩みかと思いますが、これから挑戦したいことはありますか?

よく「趣味はなんですか?」って聞かれるんだよね。でも趣味はない。何故かというと、全部本気でやっちゃっているから。音楽やエッセイ、写真も趣味じゃなくて人生になっているんですよ。それ以上のことはしたくないし飽和状態だからできない。だから、いままでやってきた好きなことを本気で、やれるところまでやるしかない。いまの延長上にしか目標はないかな。

 

 

 

「40years of Watercolor Life」佐々木悟郎 作品展

【会期】2023年7月1日(土)~17日(月・祝) 会期中無休

【時間】12:00~18:00

【場所】SHINMACHI BLDG.(多治見市新町1-2-8 新町ビル1F)

 ※入場無料

 

■イベント

「40years of Watercolor Life」記念トーク

Life is good. – 道の半ばで見えた風景 –

 

【ゲスト】安藤雅信(ギャルリ百草)

【案内人】水野雅文(地想 / 新町ビル)

 

【日時】7月16日(日)16:00〜18:00

【会場】新町ビル1F(多治見市新町1-2-8)

【飲食】喫茶わに

※入場無料(1ドリンクオーダーお願いします)

 

 

学び舎につづく道

ものづくりの道

人生という道

 

道の途中で見えるもの。

変化とともに見えなくなり

時につまずき、

寄り道をして、手にしたもの。

 

新町ビルが時代の交差点となり、言葉と思いを交わします。

 

ギャルリ百草の主宰であり、陶作家の安藤雅信さんを迎えてトークイベントが開催されます。お二人とも多治見北高校出身、美大卒、音楽好きという共通点があり、近しい世代として多治見で暮らし、同時代を生きてきたように映りますが、それぞれが歩んできた道や見てきた景色には違いもあるようです。半世紀という時を超えて、二人が新町ビルで交わることになりました。

 

用意した10の質問をもとに過去と現在をつなぎ、多治見のまちやものづくりに抱く思い、それぞれが描く人生観、変わることと変わらないことの大切さに触れながら、これから先の未来に対するメッセージを受け取ります。

 

取材撮影 加藤美岬

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